考えるひと

考えたことを、残す。

席を譲ること

電車やバスで高齢者に席を譲る、というのは良い行いだと思う。

 

 

では、どこからが高齢者で、どこまでは高齢者でないのか?

譲る/譲らないの境目はどこか?などと考えることがある。

 

これは、カテゴリ分けの弊害である。

高齢者は足腰が弱かったりして、電車の揺れを負担に感じやすい。そういった方には、座ってもらったほうがいいじゃないか。

これを一般化して、「高齢者には席を譲ろう」という標語になっている。

 

カテゴリ分けの何が便利かというと、思考を省略できる。

たとえば、妊婦の女性が身につけるタグ。あれを身に着けていることで、妊婦であることは一目瞭然だ。だから、女性を目にするたびに、その女性が妊婦なのか?ということを考える必要がない。タグを見つけたら譲る。シンプルだ。

もちろん、タグなんてなくても席を自然に譲れるのがベストだとは思う。ただ、妊婦の場合、まだ妊婦であることがひと目で明らかではない時期にも、身体的負担が大きいことがあるのだと思う。もしくは、日本人の気質として、「席を譲ってほしい」とは言いづらいのかもしれない。

なので、妊婦であることを知らせるタグには、席譲りを発動させるためのきっかけとして、意義があると思う。

 

では、高齢者はどうなのだろう?

そもそも高齢であるかを抜きにしても、席を譲らなくて結構という人もいれば、身体的負担から席に座りたい人もいる。たとえば脚を怪我して松葉杖をついている人や、体調が悪くフラフラしている人がいたら、誰でも席を譲ったほうがいいと考えるだろう。

 

この件ついて私の答えは、面倒がらずに都度考えろ、だ。

 

省略すべきでない思考をカテゴリ分けによって省略している例が、世の中には多すぎる。と私は思う。世の中はほんの少しの白黒と、膨大なグレーでできている。いつでも通用する線引きなどはなく、基準はその都度変わるのだ。その基準が今どこにあるのか考えることを、無理やり省略するのは良くない。

 

高齢者には、「座れたら助かる」人の割合が多い。だから、目の前にいる人が高齢者なら、そうでない場合と比べて、席を譲ることで助けられる可能性が高い。高齢者の場合は、基準が「譲ったほうがいい」側に寄る、というだけの話だ。

 

もちろん、限界はある。自分が座っているときに、周りに席を必要としている人がいないか、常にアンテナを張り巡らすのはあまりに疲れる。

 

だから、気づいたときでいい。見て見ぬふりをしないこと。省略すべきでない思考を、ちゃんと行うこと。これからも忘れずにいられたらと思う。