考えるひと

考えたことを、残す。

自分という人間を理解する(したい)

昨日の記事で書いたこと。

天職について。


私は昔から自動車が好きで、それを貫いて進路を設計してきた。私は自分という人間の最も活きる仕事がしたいと思っていて、自動車に携わることがそれではないか?と思ってきた。


そして今、自動車でないものに興味が湧き、そちらにキャリアの軸足を移すのもいいんじゃないか?と思っている。


ただ、このシンプルな状況説明は、自分という人間を理解する上で、表面をなぞっているだけのように思える。


自分はどういう人間なのか。そして、その人間にとって適した土俵はとこにあるのか。


突然話は変わるが、私は最近、森山直太朗の『優しさ』という曲を聴いて、思うことがあった。


この歌は、自分が大切に思う人に対して、どういう態度で接することを優しさというのか、氏の視点から解釈した歌だ。


私が読み取った限りでは氏は、優しさとは何かをを与え、施すことではなく、自分で考え、決め、乗り越え、自分の人生を自分の責任で歩いていく、そういう独立した人間として相手を尊重し、どこまでも対等に向き合うことである、と言っているのだと思う。

 

この歌を聴いて私は、母を思い出した。


母は、私がやりたいと言うことを、お金などやむを得ない事情がない限り、基本的になんでも許した。


私はそれに甘えながらも、ちょっと許しすぎではないか?などと偉そうに思っていた。


しかし、この歳になって、また別のことを思っている。

母のその態度は、私が自分の考え通りに行動し、それがどんな結果になるか。それを踏まえて次はどうするのか。そういう試行錯誤の機会を最大限与えてくれたのだと今では思う。


これは、母が私を独立した1人の人間として尊重してくれていた証だと思う。


そういう意味で、森山直太朗の歌う優しさは、母の姿と重なった。


話を戻すが、そんな母のおかげもあってか私は、目の前のことをよく考え、考えの通りに実行し、その結果に基づいて自分の考えをどう修正すべきか省み、新たな思考を生む、そういう思考の体力を持っていると思う。


その軸で、今の私の『天職』の話を見直してみると、私が今まで培ってきた思考の体力を活かせる場、それこそが天職なのだと思う。


研究や、先端技術領域のエンジニアリングは、それ自体が膨大な思考を要する。したがって、自分の長所が発揮されているように感じることができる。


ただ、それは今の仕事でなければできない、というわけではない。膨大な思考を要する仕事は、他にもたくさんある。


現に、今の仕事は非常に楽しいと感じる一方で、これこそが自分の長所の最も活きる土俵か、と言われると、素直に頷けない。


では、自分の土俵をどう絞っていくのか。


今日考えられたのは、ここまで。